(10) おーい、海 (第四章と第五章)

 (「北斗」第574号・平成23年1・2月合併号に掲載・4分の3番目) 



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  第四章 石田孝三の場合 (P.22~P.27)

 石田孝三は野性的な二人の兄とはちがっておとなしく手のかからない赤ん坊だった。寝かせておけば静かに寝ているし、夜中も安らかに眠った。だが、生後六カ月の頃はあやしても笑わず、いないいないバーをされるよりも自分の手の動きを見ていることが好きな妙な赤ん坊だった。
 兄達が十カ月の頃は抱かれたり相手されることを喜び、むしろそうして欲しくて泣き叫んでいたのに孝三は違った。知恵遅れではないか、と疑う気持ちも生じたが、それにしては孝三の顔付きは知的で賢そうに見えた。そんな孝三を見て祖父は「こんな無愛想な赤ん坊は見たことがない、きっと大物になるにちがいない」と喜び、一方で祖母が「この子は人の顔を見つめるということがないし、目を合わせようともしない、変に大人びていて薄気味悪い」と憂慮していた。
 ことばをしゃべったのは孝三の方が二人の兄より二月も早く、いつも知的にほほ笑んでいた。だが、言葉数が増えていって会話する段になると、視線を合わさず、しかも顔に表情を現さないので孝三の気持ちをくみ取ることが難しかった。自分が満足した時には声をあげて笑い、いたずらをする時の孝三の目はじつに生き生きとしていた。
 孝三の父は県内の大学を卒業して地元の企業に就職した会社員だった。母は高校の普通科を卒業し二十五歳で結婚する直前まで大手都市銀行の支店に勤めていたが、結婚退職は当たり前といった雰囲気と職場の人間関係に嫌気がさしてあっさり辞めてしまっていた。そのため、母は孝三が三歳になると保育園に預けて再び近所のスーパーで働き始めた。
 孝三は海岸の波打ち際で足の先だけ海水に浸していることが好きで、兄達が遊び疲れて帰ろうとするまでの間、孝三はただひたすら海水にひたり、それでも帰りたくないと泣き叫ぶほど気に入っていた。この頃はまだ家族の誰しもが「末っ子だから甘えん坊でわがままで凝り性だが、しかし集中力だけはスゴイ」などと言って悠長に構えていた。
 昆虫などの虫も大好きだった。それも、トンボ、蝶々、蝉などの親しみ深い昆虫ならいざ知らず、便所近くの石をめくったときにゴソゴソうごめく得体の知れぬ虫とか小さなムカデまでズボンのポケットに忍ばせて家の中に持ち込むものだからそのつど母は悲鳴を上げた。
 しかし孝三は母に叱られてもケロッとした顔で聞いていた。何度言い聞かせても家の中に薄気味悪い虫を持ち込むので母はついに孝三の頬にビンタを食らわせたが孝三は泣かなかった。「ごめんなさいと言いなさい!」と母が目をつり上げて叫んだ時、孝三は無表情で「ごめんなさいと言いなさい」と同じ言葉を繰り返して母を絶望の淵に追い込んだ。
 父に対しても同様だった。ゴロンと寝転んでテレビを見ている父の体の上を、孝三は敷石でも踏むかのように平然と踏みつけて乗り越えた。兄達も幾度となく被害を被っていた。父が烈火のごとく怒っても、孝三は耳が聞こえないかのように無視して自分の気に入っている遊びに興じていた。大物といえば大物だが、その大胆不敵さは度を越えていた。
 テレビのリモコン事件というものもあった。最初母は孝三がなぜ癇癪を起こしているのかわからなかった。やがてその訳がわかった、テレビのリモコンが座卓の定位置に置かれていなかったからだ。その位置でなければならなかった。孝三が部屋に入ってまず最初にすることは、リモコンをその位置にきっちり置くことだった。はじめのうちは「几帳面な子だ」と父も笑っていた。それが、リモコンだけでなく家具のあらゆるものの配置にこだわるようになり、そして戸や襖やドアが少しでも開いているとテキパキと閉めて回るようになった。「暑いからわざと開けてあるんだよ」とか、「タバコの煙を外に出すために開けているんだよ」等と説明しても聞く耳を持たなかった。
 母は最初のうち孝三のこの変化を、保育園でワガママが通らなくなって、そのために溜まったストレスを家で発散しているもの、と考えていた。しかし同時に、それにしてもどこか妙だとも感じていた。そんな六月のある日、担当の保母から「近日中に時間を作っていただけませんか?」と依頼されたので、翌日、午前中のパートを休むことにした。
 指示された部屋で待っていると、丸顔で二十代半ばと思えるその保母は「お待たせしました」と言いながらいかにも余裕のない表情で部屋に入って来た。保母は一秒でも早く園児達の元へ戻らねば、との責任感にせかされるがままに用件を切り出した。
「孝三君は今でも他の園児達と遊ぼうとしません。部屋の隅の方で、ほとんど一人で遊んでいます。最初のうちは、照れ屋さんではにかんでいるのかな、と思って見ていたんですが、どうもそうではなさそうで、他の園児達には全く関心がないようなんです。自分が興味を持ったことに対しては一生懸命なんですが、みんなと一緒に遊ばせようとすると参加しないで逃げてしまうんです。一番困っているのは教室から出たがることです。自分で戸の鍵をはずして出て行こうとしますが、高い所にも鍵がかけてありますから戸は開きません、すると開けろと言っていつまでも泣くんです」
 母はうなずき、ため息をつくしかなかった。
「私共の方でもあせらずに努力してまいりますが、結論から申しますと、孝三君は自閉的な傾向が強いようですから、一度病院で診てもらうことをお勧めします」
 病院と聞いて母はわが耳を疑った。ジヘイ的傾向、と言われたって何のことだか解らない。確かに孝三はワガママで人の話を聞こうとしないし気に入らないことがあれば癇癪を起こしもする。しかし孝三はまだ三歳なのだから、もう少し様子を見てからでも遅くはあるまい。孝三が病人扱いされたことに憤慨し、母は強い口調でたずねた。
「ジヘイ的傾向って、どういう意味なんですか?」
「この保育園に自閉症と診断された園児が二人いて、孝三君はそのうちの一人とよく似ているんです」
「ジヘイ症?」
 母は自閉症という病名はどこかで聞いた気がするが、それがどのような病気なのかは何も知らなかった。
「ややこしい、と申しますか、難しい障害なんです。『レインマン』という映画はご覧になっていませんか?」
 とたずねられても、母はテレビで見たような気がするとしか答えられなかった。保母は予め準備していたA5版サイズ二十ページの小冊子を母の前に差し出した。母が手に取って見ると、『自閉症の手引き、あなたの隣のレインマンを知っていますか、社団法人日本自閉症協会』と記されていた。
「近く改訂版が出るみたいなのでこれは差し上げます。もし孝三君が自閉症だとすると園の方でもそれなりに対応していかねばなりませんので、是非読んでいただいて、なるべく早いうちに発達障害専門の小児科医か児童精神科医に診てもらった方がいいと思います」
 保母の確信に満ちた口調に圧されて母はその小冊子を受け取って帰宅し、パートに出掛けるまでの一時間余をそれを読むことに費やした。その手引き書は和田誠の絵をふんだんに盛り込んで分かりやすく書かれていた。しかし、親の欲目かもしれないが、孝三の場合はこれほどまでにはひどくないように思えた。『自閉症の診断』というところを読んでもピンとこなかったが、しかし、和田誠の挿絵を交えての説明にはうなずけることが多かった。
 『おかしくもないのに笑う』『奇妙な遊び』『理由不明のかんしゃく』『子供たちの輪に入れない』『危険がわからない』 『習慣、変えるのイヤ!』『オーム返しの言葉』
 夕食の後片付けを急いで済ませ、手引き書を見ながら夫婦で語り合った。孝三はまだ来月やっと四歳になるばかりなのだからこれから先どのように成長するかわからない、と父は楽観視したがった。しかし母の耳には「もし自閉症だとすると家族の理解が絶対に必要になります。孝三君にとって早ければ早いほどいいことなんです」との保母の言葉が強くこびりついていた。
 翌日の午前十時すぎ、母はパート先から静岡市内にある大学附属病院に電話をかけてみた。その大学病院には自閉症に詳しい小児科医が一人しかいないため、新規外来予約は一年先まで埋まっているとのことだった。そこで、母は保母に言われたとおり、保育園名と園長の名前を出してなるべく早く診てもらいたいと懇願した。県会議員でもある園長の名前を出したことがモノをいったのか、しばらく待たされた後、来週水曜日の二十一時に来られますかと聞いてきた。夜の九時という非常識な時刻にあきれながらも、自閉症専門医が県下に数名しかいないと聞かされると承知するしかなかった。
 その日、母は孝三と二人で病院に行き、三十分ほど待たされてから診察室に入ると、中には二人の女性がいたが二人とも白衣は身につけていなかった。小児科医はジーンズをはいた四十歳くらいの女性で、母に質問をしながら、看護師らしき女性が孝三の相手をする様子をチラチラと横目で観察していた。一通り質問を終えると女医は孝三の前まで行って話しかけた。その時孝三は床に座り込んで看護師が出してくれたオモチャを床に一列に並べでいたが、最初に呼ばれたとき一度振り向いただけで、女医が次々に語りかけても孝三は遊ぶことに没頭し二度と振り返ることはなかった。椅子に戻って来た女医に母はたずねた。
「やっぱり、自閉症なんでしょうか?」
「予備知識がおありのようなのではっきり申し上げますが、おそらく間違いないでしょう」
 と女医は断言した。母が落胆するのを見て女医は励ますように言った。
「孝三君の場合知的機能は高いようですので、あせらず、気長に、あたたかく接してあげて下さい」
 やはりそんな程度のことしか言えないのか、と母は困惑した。保母に借りた手引き書の中に「自閉症は治るか」という項目があって、「病気が治るというような意味では、治ることはありません」と記されていたのだ。
 小児科医は続けた。
「現在のところ、これという薬や決定的な治療方法はありません。自閉症という発達障害はとても解りにくい障害で、現在でも自閉症というだけでは手当は支給されません」
「発達障害、ですか……」
 手引書を読んで以来、覚悟を徐々に固めてはいたものの、実際に孝三を診察した医師の口から『障害者』という言葉を聞くと、あらためて強いショックを受けた。
「障害者と言われて怒りたくなる気持ち、よくわかります。でもね、つい最近まで自閉症という障害があることすら知られていなかったんです。自閉症のお子さんを持った親御さん達の多くは『親のしつけが悪いんだ』などと非難され、悔しい思いをしてきたんですよ。自閉症の中でも知的障害がないお子さんを持った親御さんはその点では大変だと思います。では具体的にはどうすればいいか、ということなんですが、今後、様々な形でトラブルが発生するかと思います。でもそれは障害が原因でそうなるのですから、お母さんが感情的にならないことが大切かと思います。障害なのだからしかたない、と大きな心で受け止めてあげることです。孝三君はまだ幼いですから分かりにくい面がありますが、大人の自閉症者の場合、彼らは自分だけの世界を持っていますからそれ以外の世界にはまったく無関心で、道徳とか常識とかも一切通用しません。だからこそ過去には精神病院に入れられていた例が多かったんです。しかし、今では自閉症に関する研究も進み施設や理解者も増えていますから、実際に社会に適応できる人も出て来ています。お母さんが決してあせらずに辛抱強く接していくことが大切です」
 母は礼を言って、絶望的な思いで診察室を出た。孝三の手を引いて駅に向かう母の頭の中に『障害児』という言葉が深く強く刻み込まれた。もし、母がまだ『自閉症の手引き』を読んでおらず医者の話を聞いただけなら、感情的になって受け入れることができなかっただろう。
 しかし母は今日ここへ来るまでに自閉症の手引きを何度も繰り返し読んでいた。『働くことはできるか』とか『忙しいときに「ちょっと手を貸してくれ」と言われて真面目な顔で手を差し出すのが自閉症の人です』とか『自閉症の子供は、成長しないとか、教えても仕方がないとか、諦めたり、悲観しないで下さい。ゆっくりとではありますが、着実に、一歩一歩成長して行きます』とか『人をだましたり、ずるいことには無関係な純真な子供です』とか。
 帰宅して、母は保育園の連絡帳に、孝三が自閉症と診断されたことを記し、保育園にいるという他の自閉症児の親と連絡をとりたいから電話番号を教えて欲しいと依頼した。保育園側もその日のうちに返答をくれた。二名のうち前原という自閉症児の母親がこの地域の親の会の責任者をしている事と自宅の電話番号が記されていた。母はその夜のうちに電話をかけてみた。電話に出た前原に不安を訴えると、彼女は母の都合の良い時間に合わせて会いに来てくれることになった。
 母はスーパーが忙しくなる前の二時間を休み、近所の喫茶店で前原と会った。彼女は乗用車で乗り付け、ミニスカートとTシャツという軽装で現れた。年齢は母と同じくらいにも思えたが五歳位年下にも見えた。
「石田さん、そんな疲れた顔してたんじゃダメ、これから先が長いのよ」
 これが彼女の第一声だった。最初のうち母は彼女の屈託のなさと明るさに強い違和感を覚えた。全然障害児の母親らしくなかった。だから、彼女の子供の場合は自閉症でもよほど軽いのに違いないと思った。しかし、話を聞いてみるとそうではなかった。彼女の息子は孝三より二歳年上なのに現在も言葉がほとんどしゃべれず、運動機能の発達も遅れたため大学病院の小児科に通ったことがあるほどの重度の自閉症のようだった。彼女は言った。
「私も保育園側もみんな、知恵の発達の遅れが運動機能の発達の遅れになっていると考えてたのね。ところが、去年の今頃だったと思うけど、保母さんが子どもに歌のテープを聞かせたの、そしたらピアノの所に行って弾かせろとせがむんで保母さんがピアノの椅子に座らせたのね。すると、しばらく鍵盤をいじった後で、見事にその曲を弾いてみせたというのよ。保母さんは信じられなくて、試しにテープにあった他の曲も聞かせてみたところが今度はいきなりその曲をその通りに弾いちゃったのよ。もう保育園中が大騒ぎになっちゃったらしいわ。私の子どもの場合はそれで自閉症らしいということになったんだけど、石田さん、自閉症ってほんとに不思議な病気なのよ」



 * 訂正 
 同人誌「北斗」の27ページの上段(第四章の最後)で、前原が石田孝三の母に自閉症について説明するところがありますが、「北斗」の読者の方から『脳性麻痺』についての解釈が間違っているとのご指摘がありましたので、このブログに掲載するにあたり、その箇所を削除致しました。




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  第五章 山中信平の場合 その2 (P.27~P.33)

 卒業式翌日の春分の日の朝、信平は窓のカーテンの隙間から差し込む日差しで目覚めた。カーテンを開くとあまりにも見事な青空が広がっていた。春の風を感じたくなって自転車に乗り、迷うことなく海に向かった。
 堤防に出てサイクリングロードを走って学校の裏手あたりで自転車を止めた。階段を三段降りて腰掛けると、やわらかな日差しが信平の全身を包み込む。倫子のいない一人きりの時間と空間の中で、信平はぼんやりと海を眺め始めた。
 堂上倫子とは前年七月の初デート以来、毎日毎日、平日となく休日となく会い続けてきた。ところが、一昨日の夜に大ゲンカして「帰れ!」と倫子を追い出して以来、携帯電話の電源を切りアパートの電話のコネクターも引き抜いて通話不能にしてしまった。信平自身がそんなことをした自分に驚いていた。他人に本気で怒りをぶちまけたのは、たぶん生まれて初めてのことだった。
 昨日は職員室と卒業式会場で倫子の姿を見かけたものの、お互いに相手を避けていたため一度も顔を合わせなかった。喧嘩の原因は、突き詰めるところ、やはり倫子の嫉妬だった。つきあっていくうちに倫子は猛烈な情熱で信平を愛し始め、それと比例するかのように猛然と嫉妬し始めた。女教師と談笑しているところを目撃されようものなら後で必ず追求された。職場の人間関係を円滑にすることは大事なことだ、と信平が反論すると、だからといって媚びてヘラヘラ笑う必要はない! と論点をすり替えて追撃してくる。この時も倫子は嫉妬なんかではないと言い張った。感情的に言っているのではなくて論理的にオカシイから指摘しているのだ、と。
 なるほど倫子は誇り高い女だから、その女に愛される信平は媚びてヘラヘラ笑うような男であってはならないし、嫉妬などという低俗な感情とも無縁のはずだった。しかし、いくら言葉巧みにごまかそうと、その本質は嫉妬にほかならないと信平は考えていた。そして、とまどいながらも、信平はそんな倫子が好きだった。信平自身が自分は嫉妬深い男と自覚していたので、嫉妬されるのは愛されている証拠、嫉妬しない愛なんて信じられない、とむしろ喜んでいた。だから嫉妬慣れしているはずなのに、一昨日はどうしても許せなかったのだ。
 倫子が信平のアパートにいたときに女から電話がかかってきた。アパートの電話番号は信平の大学時代の友人の清水から教えてもらったのだという。大学時代につきあっていたその女は、ある日突然ヨーロッパの某国の大使官員と恋に陥って信平をあっさり捨てた女だった。女は男を追ってヨーロッパへ渡ったらしいと、風のうわさで聞いていた。
 倫子は雑誌をパラパラめくりながら、耳を研ぎ澄まして二人の会話を聞いていた。信平が電話を切ると、倫子は無表情を装って聞いてきた。
「誰なの?」
「学生時代につきあったことのある女だよ。はるばるヨーロッパまで男を追いかけてったのはいいけどさ、男がその国の女と結婚しちまったもんだから日本に戻って来たんだとさ」
「いまさらなぜ信ちゃんに会いたくなったの?」
「知らないよ」
「ほんとうは信ちゃんも彼女に会いたいんじゃないの?」
 信平は、ほら来た、と身構えた。こんな時の倫子は超過敏になっているので慎重に言葉を選ばねばならない。
「君も聞いてただろ? 僕はさっき、オレにはいま好きな女がいてデートに忙しいから会えない、って彼女にはっきり言ったじゃないか」
「そうね、その点は褒めてあげる。それでその時彼女はなんて応えたの?」
 信平は彼女の言葉をそのまま倫子に伝えることは危険だと思った。彼女はすがるような声で『お願い、ほんの少しの時間でいいから会いたいの』と訴えたのだ。そういう女だった。相手の都合など全然考えず、どこまでも自分の気持ちに正直で一途な、自己中の権化ともいえる女だった。信平は困惑し「今も彼女が部屋に遊びに来てるんだ。今度清水に会ったらそのうち電話するって伝えといてくれ。それじゃ」と言って強引に電話を切っていた。
 信平はとっさの判断で嘘をつくことにした。
「よかったじゃない、ってさ」
「ふーん」
 と倫子は疑り深い目で信平を見た。
「私には、すぐ横で私が話を聞いているから、また後でゆっくり話をしよう、って伝えたように思えたんだけど?」
 信平はため息をついた。
「考え過ぎだよ、君の悪い癖だ」
「そうだといいんだけどさ。ね、信ちゃん、私心配で眠れそうにないから、今夜ここに泊まってもいい?」
「そりゃあかまわないけど、明日は卒業式だよ、その服装で出るのか?」
「そうだった」
 と倫子は諦めかけたので、信平がそこで黙っていればおとなしく引き下がったのかもしれない。が、信平はつい余計なことをしゃべってしまった。
「それに、こないだ泊まった時は、お父さんが怒りまくって大変だったじゃないか」
 この言葉を聞いた瞬間に倫子の顔色が変わった。追い返すような印象を与えてしまったのだ。
「いや! やっぱり泊まる!」
「おいおい」
「明日の朝五時頃に服を取りに行くことにする」
「お父さんは?」
「いいの、もし父が勘当するって言ったらこの部屋に荷物運んで来るから」
 信平は閉口した。このような状態に陥った時の倫子にはもう何を言っても無駄だった。
 倫子は自宅に電話して母に早朝に帰ることを伝えた。ところがまずいことに、その三時間後に倫子の予感が的中してしまったのだ。
 夜の十一時過ぎに再びアパートの電話が鳴った。信平が受話器を取ると、先程の女が、悪女のうすら笑いを思い浮かべる声でささやきかけてきた。
「彼女、もう帰った?」
 信平は天を仰いだ。倫子は鬼の形相で信平を睨みつけている。
「山中君、どうしたの?」
 信平はまさかのために用意しておいた言葉をその女にたたきつけた。
「迷惑なんだよ、もう電話しないでくれ。本当はオレ達、同棲してるんだ」
 と言うと同時に電話を切った。間髪を容れず倫子の攻撃が開始された。
「そんな風に言ったんじゃダメよ、かえって彼女の闘争心に火をつけてしまうわ」
 それじゃ、どう言えばいいんだよ! と、これまで何度繰り返し叫んだことだろう。
 倫子は頭の回転の早い女だった。信平がかろうじて二流の私大に受かったのに対し、倫子は国立大の医学部、教育学部共に合格し、こともあろうに予定どおり医学部を蹴って教師の道を選んだ正真正銘の才女だった。才媛ならばこそ、回転の速い頭脳が時に暴走し、理念が理念を生んで論理の迷宮にはまり込み理念に翻弄されもする。
 信平が大学生の時の講師の一人にかつて過激派だったという頭の切れる教官がいたが、彼は連合赤軍の一連の事件について「彼らの気持ちが解るような気がする、論理的に追求していくとリンチ殺人しか方法がなかったと思う」と語っていた。それに対し、信平のような凡人はたっぷり時間をかけて一つ一つ理念を積み上げて行くしかすべがないからまず大きな間違いはしない。だから信平はそんな倫子を見て、頭の良い人間は不幸だ、と心の底から思っていた。大きなお世話かもしれないが、オレの愛で倫子を普通の女にしてやろう、と心ひそかに決めていた。
 信平はこれまで何度も倫子に繰り返し言ってきたことを、ここでまた口にしなければならなかった。
「いいかい、ミッチャン、僕は君を愛してる、世界中でただ一人、君だけを愛している。僕がそう信じている限り、どんな女も僕に近づくことはできない。そうだろ?」
「確かにその通りよ、でもたった今、それは相手によりけりだということが判ったの。私、イヤな予感がするの。だって彼女、好きになったら何もかも捨てて外国まで追いかけて行くような人よ、彼女は執拗に信ちゃんにアタックしてくるわ、だって、このアパートの電話番号だって執念で何人にもあたって捜し出すような人なのよ、同棲している女がいたって簡単に諦めるような人じゃないわ」
 恐ろしい女だ、と信平はつくづく思う。こうやってどんどん自分の首を締めていく。倫子の左手首の傷は、全身全霊を捧げた愛が叶えられなかったがゆえに、自分を抹殺しようとしてできた心の傷の象徴だ。その時に名トランペッター君がマンションに戻って来なければ倫子はもうこの世にはいなかったかもしれないのだ。倫子自身はこの時のリストカットについて「男に対する未練からきた当てつけなんかじゃなくて、こんなくだらない男を愛してしまった自分自身が情けなくて許せなかったから」と解説したのだが、自死者の心理は信平にはわからない。
 想像するしかないが、その精神が完璧に病気状態であることは間違いない。彼らは後で口をそろえて言うらしい。「なぜ死のうとしたか自分でもわからない」と。倫子はそのような危うさを漂わせている女なのだ。
 しかし信平は逃げなかった。『女なんて』『人間なんて』という不信感を抱きながら生きてきた信平にとって、倫子のような愛一筋に生きる女こそが必要なのだ。愛されていることを実感させてくれる女が必要だった。
 無類のひたむきな愛が欲しければ、常にその愛が受け入れられるだけのスペースを心の中に保っていなければならない。名トランペッター君は倫子の愛に押し潰されたようだが、オレは負けない、と信平は自分に言い聞かせていた。
「君は重要なことを忘れてる。あの女は、何のためらいもなく平気で僕を捨てた女なんだぞ。僕にだってプライドはあるんだからな」
「信ちゃんのプライドなんか、女の意地にかかったらひとたまりもないわよ」
「悪かったな」
「だって本当のことだもん」
「彼女の意地って、何なんだ?」
「いい、信ちゃん、彼女にとって信ちゃんは、今でも彼女を好きでなければならないの。捨てたのは信ちゃんでなくて彼女の方なんだから。人間はふられた事その事自体だけでは相手を嫌うことはできないのよ、自分を守るために、嫌いになるように努力しているだけ。心の底から嫌いになるには、他に理由が必要なの」
「僕には、僕を理解することができなかったから彼女は他の男を選んだ、という事実だけで十分だよ。僕を愛すことができないということは、彼女の人間性と僕の人間性が違っているということじゃないか、それだけで十分だ」
「ほら、それが、後から取って付けた理由だというの。傷ついた自分を癒すために捏造した単なる観念論にすぎないの。つまり、信ちゃんは心の底からそう信じているわけじゃなくて、そう自分に言い聞かせているだけなの。その証拠に、信ちゃんは今でも彼女が嫌いじゃないでしょ?」
「またそれか」
 信平はうんざりした。倫子はどうしても、信平が人を嫌おうとしないことが納得できないのだ。信平の持論は「どんな人間にも長所と短所がある、短所だけを見て人を嫌うべきではない」というものだった。それに対する倫子の反論は「そんなの傲慢だわ、高みに立っているとしか思えない。裸の人間と人間が対等に向き合えば、好き嫌いの感情が出て当然だわ」というものだった。この論議はお互いの信念を基調としているためにどこまでも平行線をたどった。要するに、信平は他人を攻撃することのできない優柔不断なお人よしであり、倫子は好き嫌いの感情をもとに一切を意義づけしようとする理論家ということなのだ。論理の組立の方向は所詮感情によって指示がなされるのだから。
「よし、それじゃあ百歩譲って、僕はついさっきまでは彼女のことが嫌いではなかったとしよう。しかし、彼女が電話してきたその瞬間から僕は彼女が嫌いになった。これは神に誓って真実だ」
「ダメよ、電話をかけてくる前から嫌っていなきゃダメなのよ。だって、清水君は信ちゃんと私がつきあっている事を重々知っているのだから、彼女は私の存在を承知の上で電話してきているのよ、そういう女なのよ、なのに嫌いになれないなんて、そんな信ちゃんは絶対にヘンよ、人間性を疑うわよ」
 と、このような調子で倫子の攻撃は延々と続く。一つ反論すれば十倍にして返して来る、いつもこんな調子なのだ。信平は最初の頃は、細部にこだわり過ぎるために全体が見えなくなる、だから、なんて頭の悪い女なんだ、と考えたりもした。だが、このことは、オレを愛しているから気になってしかたないのだ、とプラス思考でとらえてきた。
 次に考えたのは、倫子の嫉妬心の激しさの由来だ。基本的には、愛が深ければ深いほど、強ければ強いほど嫉妬心は激しくなる、と考えていいだろう。抑制が効くうちは大した愛ではないということだ。それはそれとして、嫉妬心の背後に支配欲・独占欲があるとすれば、その人間の生い立ちや生きざまが深く関わっているような気がする。生来の勝ち気で負けず嫌いな性格は学校の成績の上にも反映されることは否めない。激烈な競争社会を勝ち抜くことで感性を研いできた、そういう倫子だからこそ比類なき嫉妬心の持ち主なのだ、と信平は分析している。愛が強くとも嫉妬心の薄い女は世界中捜せばどこかに一人くらいいるかもしれないが、信平自身の体験からそれは矛盾するような気がする。どう考えても、愛と独占欲が絡み合って嫉妬心という怪物が生み出されるとしか思えない。
 信平はあたかも精神科医やカウンセラーになったつもりで辛抱強く倫子の相手をした。信平は精神医学に関してはまるでド素人だが、なんとなく、倫子のその病的な部分を治すには倫子の話を聞いてやるしか方法がないと思っている。それがやがて倫子の精神的安定につながると信じている。つまり、そのことだけが倫子を普通の女にする唯一の方法なのだと。
 しかし、この夜の倫子は異常だった。倫子の頭の中でその女の存在が、否定すればするほど大きく膨らんでいくようだった。これまでにない倫子の激しいエネルギーに圧倒され、そのための疲労が信平から余裕を奪っていき、そしてついにギブアップした。
「ミッチャン、朝早く起きなくちゃならないし、キリがないからもう寝ようよ」
 この言葉は火に油を注ぐようなものだった。倫子はさらに両目を吊り上げた。
「なによ、私がこんなに苦しんでいるのに。『守ってあげるから、どんなことでも受け止めてあげるから遠慮しないで吐き出していいよ』って言ったのは嘘だったの!」
 確かに信平は倫子にそう言った。昨年の十月、倫子が初めてぷつんとキレて不安定になって信平に攻撃をしかけてきた時のことだ。信平は倫子が怒ってアパートから出て行った後でかなり落ち込み、悩み考えて全然眠れなかった。気が狂いそうになったので外の空気を吸うことにした。自転車で海岸に行った。午前二時の海。無数のきらめく星たち、押し寄せる白波、顔をなでる海風、小石を洗う波音、微かな潮の匂い。そのとき信平は大宇宙の中にポツンとたたずむ自分を見た。背筋がぞっとするような孤独感に襲われて『せっかく生涯の伴侶と信じられる女性と出会えたのに、もう独りになるのはいやだ!』と心の中で叫んでいた。するとやがて心が穏やかになっていき、自分こそが倫子をあそこまで追い込んだ張本人という事に気づいて倫子がかわいそうでならなくなった。その時の気持ちを携帯電話に下書きしておいて、翌日に勤務を終え帰りかけた倫子の携帯に発信した。それがいま倫子が口にした言葉だった。その時以来、倫子はぷつん、ぷつんと遠慮容赦なくキレるようになっていった。
 倫子の鋭い指摘に信平は困惑した。が、これ以上吐き出させることは逆効果のような気がした。
「そうじゃない、だって、どんどんハマッテ行く一方じゃないか」
「嘘つき」
 信平は立ち上がった。そして、倫子の右手を軽く引きながら言った。
「少し、外の空気を吸おう」
「いやっ!」
 倫子は信平の手を振り払い、般若の形相で憎しみを込めて言った。
「卑怯者! あなたはいつもそう、大事な時に決まって逃げ出す腰抜けよ!」
 ぷつん、と、信平の頭の中で何かが切れた。両耳のあたりがカッとほてり、その直後に頭全体が熱くなった。信平はこみ上げてくる怒りを必死に押さえ込みながら小声でしぼり出すように言った。
「帰れよ」
 信平の怒った顔を初めて見た倫子は一瞬ひるんだが「いやよ」と小声でかろうじて抵抗した。信平は少し声を荒げた。
「いいから帰れ」
「いや」
 その時信平は、アパート中の住民がとび起きてしまうような大声で怒鳴ったのだった。
「出て行けーッ!」




 * (11) おーい、海 (第六章とエピローグ) につづく 







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