第64話 愛について(5)

「北斗」第616号(平成27年4月号)に掲載

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 鈴木沙織のイメージ


 名倉憲也は鈴木沙織との待ち合わせ場所に行くのに近鉄電車を使うことにした。密室空間である車で行って、例えばメナード美術館とか知多半島の先端から夕陽が見たいとか誘われでもしたら、毅然と断るだけの自信がなかったからだ。
 しかし、この深慮が裏目に出た。家から最寄りの駅近くの有料駐車場に車を預け、駅に着いてみると、踏切事故があったばかりで電車が不通になっていた。これから車で名古屋駅まで急いで行っても約束の刻限に遅れてしまう。
 考えようによっては、大幅に遅刻して行って沙織が待ちきれずに去っていればそれもまた運命と考えればよいものを、約束の時間を守れない自分をどうしても許せない。
 憲也は携帯に登録したばかりの沙織の携帯番号に電話した。沙織はなんと、名鉄電車の中かと思いきやすでに三省堂高島屋店の新潮文庫の棚の前にいて、山本周五郎の文庫本が何冊あるかを数えているところだという。
「踏切事故で電車が止まっているから車で行くけど、たぶん三十分ほど遅刻すると思う」
「分かりました」
「じゃ、急いで行くから」
 電話を切ろうとすると、あ、でも、と沙織が呼び止めた。
「それならせっかくだから、名古屋市内に安くておいしいパスタ料理を出す評判の店があって、一度食べてみたいのでそちらに変更しませんか?」
 憲也は食い物なんかどうでもいいし、遅刻する負い目もあるので逆らわないことにした。
「わかった。じゃ、名古屋駅前の路上でピックアップしよう。どこならわかる?」
 沙織はいたずらっぽく笑いながら即答した。
「去年の忘年会の後で、彼女さんが係長を迎えに来た場所なら覚えてますけど」
 まったく大した女だと、ほとほと感心する。
「わかった。じゃ、あの場所の近くに車を停められたら電話するから」

 結局、その場所から横断歩道を渡った反対側の路上で沙織が車の助手席に乗り込んで来た。
「待たせてごめん」
「いいえ、おかげで前から欲しかったものが見つけられたので、買ってきちゃいました」
 沙織は大きな紙袋を憲也に見せてから足元に置いた。
「何、それ?」
「高反発枕です」
 低反発か高反発か知らないが、店の住所はメモしてあるというのでカーナビに打ち込んで車をスタートさせた。どうやら昭和区の八事日赤病院の近くにあるようだ。
「係長と二人でドライブできるなんて夢のようです」
「また大げさな。高速を使わなくても一時間もかからないで行けると思うよ。パスタが好きなんだね」
「はい、大好きです。うどんやそばやラーメンにも目がなくて、係長とどっちが好きかと尋ねられたら答えられないくらい麺類が好きなんです」
 どこまで積極的な女なんだろう。
「ところで係長、彼女と何かあったんですか。だって、まさか本当に会っていただけるなんて全然思ってなくて、冗談のつもりで書いただけだったのに」
 憲也は一瞬ためらったが、つい、美世子と一カ月も会えないでいることをバラしてしまった。すると沙織はおそろしく深刻な顔つきになり、おもむろに口を開いた。
「ねえ、係長。私、都合の良い女になってあげてもいいですよ」
「どういうこと?」
「ようするに、係長が彼女と会えなくて寂しい時にだけ会ってもらえればいいということです。私の方からは一切、電話もメールもしませんから」
 憲也は思わずゴクリと生唾を飲み込んだ。まさに、据え膳食わぬは武士の恥状態なので下腹部がもりもりと膨張している。沙織は動揺する憲也の心中を察知して言った。
「係長、いま葛藤してくれてますよね」
「まいったな」
「いっそのこと、パスタはいつでも食べられますから、これからカラオケに行きませんか」
「カラオケ?」
「どこかのコンビニでオニギリかサンドイッチでも買って、カラオケができる個室に入って、腹ごしらえをしてから絶叫ソングとか歌うんです。カラオケよりも私を食べたくなったら、遠慮しないで食べちゃっていいですよ」
 なんと、ラブホテルに行こうと誘っているのだ。憲也は拒否するどころか、情けない自分に向かってつぶやいた。
「困ったな」
 沙織は何かを思い出しながら、とつとつと訴えた。
「山本周五郎も言ってます。人生で二者択一の岐路に立って迷ったら、あえて困難と思える方の道を選べ、って」
 おいおい、この場合は困難な道というよりは、修羅場が確実に目に浮かぶ、どえりゃあメンドクセー道なんだけど。







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 メナード美術館







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 野間灯台と夕陽







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 三省堂書店







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 名古屋駅前







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 高反発枕







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 八事日赤病院







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 おにぎり







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 サンドイッチ






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